アブダクション

ビジネスの世界で一般的に“ロジカル・シンキング”と呼ばれるもは、演繹法と帰納法で構成されています。これまでの市場環境においては、おおかた演繹と帰納という2つのロジックを用いることで競争優位が目指されてきました。

しかし、これらのロジックは本来いわゆる「ひとつの正しい正解」を目指すために使われるものであり、究極的にはどのプレイヤーも同じ解に至ることを意味します。価値観の多様化した成熟社会において求められる革新的な価値の創造には、従来型のロジックのみでは対応できません。

inference

ビジネスの世界ではまだ明確に普及していませんが、成熟社会での競争優位を目指す上で欠かすことのできない第三のロジックとして「アブダクション」という方法論がとても重要です。そして、アブダクションを起点として帰納法と演繹法を含め3つのロジックを統合的に用いることで、イノベーティブなアイデア創出の可能性を高め、さらにその実現精度を高めます。


 

演繹的推論:deduction

演繹法は、分析的推論とも呼ばれ、前提とする原理・法則・条件から、それらの条件等を必然的に満たす結論を導き出す推論です。

deduction

演繹的推論の例:

  • 前提1:市場Aは拡大している
  • 前提2:(一般的に)拡大している市場は、参入余地が大きい
  • 結論 :市場Aは参入余地が大きい

これは、投入する資本がある程度確保できるならどの市場プレイヤーでも考える論理パターンです。過去の長期成長時代には、多くの日本企業がこのようなロジックで実際に成長・成功してきたのも事実です。ところが、成熟社会・超低成長時代においては、これまでどおりにこのようなロジックを運用することは極めて危険です。

世の中のベクトルが多様化したことと、テクノロジーの進歩が急速なことによって、前提として考慮すべきパラメータ(変数)が多種多様で、重要変数の存在に気づけない可能性すら多分にあります。


 

帰納的推論:induction

帰納法は、個々の具体的な現象から共通する法則・パターンを結論として導き出す推論です。

induction

帰納的推論の例:

  • 新たな企画商品のアンケート(サンプル抽出調査)を実施したところ、
  • 300人中、270人が「欲しい」と答えた。(→部分的事象)
  • よって、実際の市場全体でも9割の人が「欲しい」と思うだろう。(→母集団全体への一般化)

 

このような購入意向調査は、新商品を企画する際のプロセスとして一般的に行われています。そして、実際その調査結果を踏まえて企画内容を変更したりブラッシュアップしたりします。しかし、帰納法は「蓋然的」推論である、という制約から逃れることができません。すなわち、「部分」(サンプル)から「全体(母集団)」を推論する以上、確率論的な意味での100%保証はありえない、ということです。その欠陥を補うために、通常の統計解析では「有意確率」という概念を用いて一定の確実性を担保します。

 

しかし、例えば95%水準以上の有意確率を満たした上でもなお、推論結果と現実が大きく乖離してしまうケースがあります。そして、それは多様性を極める成熟社会においてはより一層顕著なものとなりつつあります。最も極端な例で言えば、事前調査ではほとんどの人が「欲しい」と言ったにもかかわらず、上市してみたら想定の半分しか売れなかった、といったケースもありえます。

 

同質化の罠

 

しかし、最も強調しなければならいことがあります。それは、観察可能な現象や取得可能なデータから蓋然的に導き出された法則・パターン(たとえば、消費者の共通の「要望」など)に沿って、商品化を実施することは、避けられないある結果を生み出すことになるということです。その避けられないある結果とは、「どの市場プレイヤーも同じような製品/サービスや戦略に行き着く」ということです。

 

帰納法は、観察対象が同じであれば誰でも同様の結論に至ります。商品企画やマーケティングにおいて、アンケート調査を主体としたマーケティング・リサーチ手法を用いた場合、対象市場が同じであれば究極的には「商品差別化が出来ない」というジレンマがあるのです。

 

演繹法の場合もまたしかりです。帰納法の推論結果は「蓋然的」ですが、演繹法においては「必然的」です。したがって、帰納法よりも一層強い同質化を生み出します。演繹法の場合は、「戦略的意思決定において、差別化が出来ない」というジレンマを抱えることになります。すなわち、他社と同じような戦略しか導き出せず、事業の進むべき方向性が同質化し、戦略レベルの革新的なブレークスルーというものが望めません。結果、戦術レベルでの試行錯誤に終始し、消費者から見れば本質的な価値の部分において大差のない選択肢しかないという状況になります。

 

企業サイドからすれば、競争優位の道筋が見えず同質化に陥ってしまうことは、本質的な価値創造活動の多様性がなくなり、価格プロモーションを中心とした苦しい戦術競争が繰り広げられます。消費者サイドから見れば、どのオファーも本質的な価値においては同質的なものばかりで、多様な選択肢を得る機会が閉ざされた市場社会となり、価格やおまけ程度の付属的バリューを頼りにしか商品選択ができない消費生活を余儀なくされてしまいます。

 

このような誰もが望まない状況に陥らないためにオリジナリティの高い価値を提供し競争優位を築こうとする側に必要な思考ロジックがアブダクションです。以下では、アブダクションとはどのようなロジックなのか、同じ“拡張的推論”である帰納法と対比しながら述べていきます。


 

アブダクション:abduction/retroduction(遡及推論)

 

アブダクションのロジック:

  1. (驚くべき/注目すべき)事実Cがある。
  2. しかし(ところで)H(という原理・原因・条件)があれば、Cという事実は当然と言える。
  3. よって、Hは真であると考えられる。

 

abduction

アブダクションは、遡及推論(リトロダクション)とも呼ばれ、結果から遡って原因を推測する論理です。帰納法が観察可能な事象を一般化するロジックであるのに対し、アブダクションは(多くの場合)観察可能な事象から直接観察することが不可能な原因を推論します。

 

帰納法は「 “部分”に関する既知の情報から、その“部分”が属する“まとまり全体”を推論する行為」です。端的に言えば、「既知の部分的経験から、未知の類似の経験を推論する」ということです。たとえば、リンゴを初めて見た人が、リンゴが木から落ちるのを見て「他のリンゴも木から落ちるだろう」と考えたり、「木になっている他の果実も地面に落ちるだろう」と考えたりするのは、「リンゴが木から落ちた」という既知の部分的な情報から、「他のリンゴも・・・」「他の果実も・・・」と、そのクラス全体へと類似の事象を敷衍的に推論する帰納法です。

 

これに対し、アブダクションは「既知の情報から、(多くの場合)観察不可能な原因(や背景となる理論)を推論する行為」です。たとえば、リンゴが木から落ちるのを見た人が、「リンゴが木から落ちるのは、物体同士が互いに引力で引き合っているからだ」(ニュートンによる“万有引力”のアブダクション)といった具合に、「リンゴが落ちた」という個別現象の一般化(他のリンゴや果実への当てはめ)ではなく、「リンゴが落ちた」ことの背景にある原因を“発明”する行為がアブダクションです。


 

超低成長時代のイノベーション・ドライバー

ニュートンの万有引力の“発明”は象徴的な例ですが、科学史の発展においては、帰納法ではなくアブダクションが大きな役割を果たしてきました。特に目に見えない対象を扱うことの多い物理学の発展においては、アブダクションは決定的な役割を果たしてきました。

現在においても、科学やテクノロジー分野に限らず、私たちの生活を豊かにするあらゆる産業・非営利活動において、アブダクションすることを非常に重要かつ必要な行為だと思います。飛躍的なイノベーションを生み出すための創造的営為のはじまりは、演繹や帰納ではなくアブダクションによるところが大きいからです。(ただし、演繹と帰納はアブダクションとセットで用いることで、より強固な推論を可能にします。)

一般的に当然とされている原理をそのまま論理展開して敷衍しても、他社との差別性は存在しえません。顧客や消費者の意見を抽出して一般化しても、画期的なイノベーションはまず実現できません。しかし、その背景にある原因や仕組みをより深く、より原理的に遡ってアブダクティブに推論することで、顧客や消費者自身も自覚的に伝達出来なかった重要な原理を見出せる可能性が開かれています。そこにイノベーションへの道が開かれていると思います。