現象学的還元

「現象学的還元」は、「エポケー(判断中止)」と共に用いられる現象学の中心概念で、E.フッサールが最初に提示しました。

現象学は哲学の一分野とされていますが、これは「真理とは何か」を問う類の哲学とは異なります。現象学はむしろ、「それが真であると確信される(あるいは“認識される”、“妥当する”)のは何故、どのようにしてか」を問うための“方法論”であり、“思考原理”です。

そのため、日常生活のあらゆる場面、政治、ビジネス、ディスカッションの場など、様々な生活世界における思考の道具となりえる極めてプラクティカルなツールです。


►「確信成立の条件と構造」を明らかにする思考ツール

 

私たちの世界認識は、通常、「目に見えるものや感覚器官によって知覚・認識できるものが客観的な実体としてに存在する」と考えます。これをフッサールは「自然的態度」と呼びました。しかし、注意深く考えると、このような認識は本当に正しい認識と言えるのか、という疑問がわいてきます。

 

たとえば、日本語文化圏では、空から降ってくる白い粉のような冷たい氷を「雪」と認識します。しかし、エスキモーの文化圏では、そのようなものを総称的に表す言葉はなく、日本語の「雪」にあたるものは、その“落下物”の特長により細かく分類され、それぞれ別のものという認識がなされています。つまり、エスキモーの社会では、日本語で言う「雪」という実体は存在しません。このように、実は客観的実体や客観的事実というものは存在せず、あるのは認識主体による対象(生活世界)への主観的な解釈ないし評価のみです。

 

このような主観の背後に存在する意識の支配的な能作を現象学では「志向性」と呼びます。自分の意識が何を志向しているかによって、対象(生活世界)の認識が異なってきます。別の表現をすれば、世界(認識)は対象世界を意識する主体と無関係に成立することはありえない(無色透明の客観的世界というものは存在しない)ということです。

 

しかし、私たちは意識しないとこのような注意深い思慮はできず、生活世界(現象学の用語で「認識の対象」といった意味)というものを客観的に存在する実体・事実の体系ととらえてしまいます。フッサールによれば、実はこれはガリレイやデカルトらによって確立された近代的二元論、すなわち「主観」と「客観」とが独立して存在するというパラダイムに多くの現代人が支配されている所以です。

 

現象学では、あらゆる認識行為は「主体による生活世界の“主観的な確信”である」と考えます。その生活世界が自分に立ち現われてくるその「確信の成立の条件と構造」を問うて明らかにする行為を現象学的還元と呼びます。

 

現象学的還元

 

繰り返しますと、現象学的還元とは、立ち現われてくる生活世界に対する「確信成立の条件と構造」を解明する思考行為です。

 

たとえば、アルコール。ある人にとっては、飲むことで良い気分になるためのものに見え、ある人にとっては消毒するために有用なものに見え、ある人にとっては燃料に見えるかもしれません。それは、それぞれの置かれている状況や環境や立場などが異なるからであり、現象学的に言えば各人の意識が異なる志向性を持っているからであり、それによって見える生活世界も異なってきます。そのようなとき、それは消毒剤である、それはドリンクである、それは燃料である、という認識の違いが生じます。

 

なぜ、当人にとってその対象が消毒剤として立ち現われてきたのか、なぜ燃料として立ち現われてきたのか、といった具合に、認識対象が自分の主観に立ち現われてくるその背景や条件や理由を考えるのが(確信の成立の条件と構造を問う)のが現象学的還元です。そのためにはまず、自然的態度で立ち現われてくる確信をひとまず取り払ってどこかに置いておきます。これはしばしば“カッコに入れる”と表現され、専門用語では“エポケー(判断中止)”と言われます。

 

「燃料がある」と思ったとき、客観的実体のように思える「燃料」をカッコに入れ(エポケーし)、なぜその知覚対象が自分に「燃料」として妥当してきたのか、を考えるのです。これが現象学的還元です。

 

このような思考原理を働かせることで、志向性に支配された意識の世界によって色づけられた認識というものは、他者と共通のものではなく、自分独自の認識であるということが分かり、さらにはなぜ自分がそのように認識したかということを客観的に理解することができます。それは、対立する認識や価値観があった場合に不毛な議論に陥ることを避け、それぞれの認識や確信が成立した経緯や理由を明らかにすることで、対立する議論を止揚しうることを意味します。

 

それだけではありません。志向性に支配されている自然的態度による認識や確信を現象学的に還元することで、これまでは見えてこなかった可能性が見えてくる可能性が開かれてきます。


 

ビジネスへのインプリケーション

 

市場プレイヤー(そしてその企業・組織の担当者)は、自社の市場や事業領域を「○○市場の商品」とか「○○業」といったように暗黙裡に定義し、その暗黙の前提のもとに日々活動しています。それ自体はごく自然なことで、むしろそうしなければ日々の活動は困難と言えます。しかし、そのような前提に無自覚でいることは危険です。

 

たとえば衰退したかつての米国の鉄道業に対してセオドア・レビットがいみじくも指摘したように、「“鉄道業”というシーズ目線の市場(事業)定義をしたために、“輸送業”というニーズ目線の市場(事業)定義ができず、結果として変化対応ができなかった」という例と類似のケースに陥る可能性は現代でも変わりません。これは、いわゆる“パラダイムの魔力”と言えるもので、市場プレイヤーの多くは自社の事業の特性に基づく暗黙のメンタル・モデル(パラダイム)に支配されているのです。

 

このようなとき、現象学的に“判断中止(エポケー)”し、“還元”を行うことで、固有のパラダイムから一歩引いて、消費者・顧客・ノンユーザー・異業種のプレイヤーなど幅広い視点も含めて、市場・事業を固定的なものではなく常に可能性に開かれたものとして認識することが可能となります。

 

現象学的還元、エポケー(判断中止)、可変的パラダイム

 

たとえば、コンビニエンス・ストアは、日本標準産業分類において「その他飲食料品小売業」とされていますが、現在のコンビニの実態はサービス・ポートフォリオにおいて物販の売上よりも仲介サービス業(支払い代行、取次、などの仲介手数料ビジネス)としての売り上げのほうが大きな比率を占めているといいます。こうなるとコンビニエンス・“ストア”というよりも、コンビニエンス・“ステーション”というほうが適切かもしれません。少なくとも社内ではそのようなコンセプトを共有することで、事業可能性を広げることができるかもしれません。

 

しかし、一般的には多くの人が“コンビニは小売業”という認識を持っていると思います。現象学的思考では、コンビニエンス・ストアという対象が“小売業”として妥当してくる(自然的に認識される)のを意図的に判断中止(エポケー)し、なぜ対象を小売業として認識したのか(なぜ対象が小売業として自分に立ち現われてきたのか)を省察します(現象学的還元)。

 

ビジネスにおいて、現在の自然的態度は事業・製品・技術・市場といったもののポテンシャルを暗黙裡に狭めてしまっている可能性が常にあります。現象学は、そのような状況から脱して可能性に開かれた状態を常に保つための“思考の原理”であり、また他社に先駆けた先見の明を常に持つためにも極めて有用な思考原理です。そのための主要ツールが“エポケー(判断中止)”とセットで用いられる“現象学的的還元”ということになります。

 

「小売業は変化対応業である」という鈴木敏文氏の有名な言葉がありますが、これは現象学的還元に近い考えです。「小売業は物販業」あるいは「小売業は流通業」という“確信”(の成立)をいったん判断中止(エポケー)し、立地ビジネスの本質へと考察を深めたところに、現在の複合サービス業としての現在のコンビニの業態が成立していると考えることができます。

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